たまこラブストーリーを見た

以下、適当なメモ。
無菌室のように、悪意が一欠片も存在しない世界、それが北白川たまこ、もというさぎ山商店街を取り囲む世界なのだというのが、「たまこまーけっと」を適当に流し見た僕の認識だったが、そこで繰り広げられるお伽話は辟易するほどにのんびりとしたものだった気がする。辛いことばかりの現実的日常に対比されるかのように、視聴者の張り詰めた心を弛緩させるような甘ったるい物語こそが制作側の狙いだったのだろう。僕はつまらないと感じたけれども、まあそこはどうでもいいことだ。
さて、その「たまこまーけっと」の映画版たる「たまこラブストーリー」であるが、これはテレビアニメには決定的にかけていた「ドラマ」が存在していた。砂糖菓子のような世界であっても、時間軸を取り入れてしまう以上は何かが変化せざるを得ない。しかしながら、人生、世界観が閉鎖的な空間にとどまっているたまこを動かして、「変化」を起こすのは困難を伴う、というわけで、今作は幼なじみのもち蔵からたまこに告白をさせる、というトリガーによって展開していく。世界は変わるのだという当たり前の話を、恋愛感情の発覚という関係性の変化をベースとして細やかに展開した製作陣には素直に拍手を送りたい。たまこまーけっとの持つ緩やかで優しい世界観を崩さずに、上手に変わるということを表現したと思う。
幼なじみという兄弟のような関係から恋愛関係への移行は、たまこにとって見れば世界を根本的に塗り替えてしまうものだった、と言っても過言ではない。それにもち蔵は、近い将来、東京に行ってしまう。そんな変化を優しく受け止め、世界と自分の間をうまくリバランスすること、それが生きるということなのだ。かんなちゃんが言っていた、バランスポイントの話は明確な比喩であるし、バトンや糸電話のキャッチに関する描写もそうだ。バトンは動いているものだ。だからこそ、それから目を離さずに上手に受け止めなければいけない。父親の歌に対する、母親の下手くそな返歌を聴いて、たまこは逃げるのではなくてきちんと応えてあげなければいけないのだと理解する。いつまでも面食らっている場合ではないのだ、と。
ついでに言えば、みどりちゃんはおそらくたまこに対して友情以上の感情(恋というほどではない。所有に近いものかもしれない)を抱いており、たまこに恋焦がれながらもアクションを起こさないもち蔵をヘタレとして蔑んでいた(言い過ぎか)が、彼が告白という一大行動を起こしたあとは、むしろその成就のためにサポートに回っている。もちろん、それは根底ではたまこももち蔵のことを憎からず思っていることを知っているからだろうが、もち蔵を認めたということもであるし、そして何よりみどり自身が世界の変化に対して折り合いをつけたということだろう。喪失に対する気持ちの決着は、たまこがやった幸福な受容よりも、観客からすれば共感しやすいものかもしれないし、実際に僕としてみればそうだった。だから、というわけではないが、「たまこラブストーリー」の裏主人公はみどりちゃんなのだ、と僕は思う。
自分の思いと他者の思いのすれ違い、ままならない自分の願望、それを無残にも却下することもある世界の酷薄さ、それらをキャッチして、うまく折り合いを付けなければ生きていけない。大人になるということは諦めを覚えることではないが、少なくとも全てが思い通りにうまくいくわけではないことを知らなければならないし、認めなければならない。嬉しいこともあれば、寂しくなることもある。そして、悲しいこともある。今日という一日は、昨日とも明日とも違う一日だ。日常という単語に凝縮してしまえば、差異はほとんど見えなくなってしまうかもしれないが、一つ一つ取り上げてみれば異なっている。そして、その中でささやかな変化が起きていく。だから、素晴らしいのだ。世界の表情は毎日変わっている。だから、がんばって、とたまこたちと観客にエールを送っているような、そんな映画だった。あなたたちがこの先人生を送っていくならば、変化は数えきれないほど起こるだろう。けれど、それをうまく受け止めてやらなければいけないよ、と優しく語りかけているかのような……。
本当に良かったよ、これ。