「放浪息子」(8・9) 志村貴子/エンターブレイン

放浪息子 (8) (BEAM COMIX)

放浪息子 (8) (BEAM COMIX)

放浪息子 9 (BEAM COMIX)

放浪息子 9 (BEAM COMIX)

ぼくだけ
笑われた

9巻を読んで、8巻の内容を全て忘れていたことに愕然として、読み返してみた。
8巻で、よしのは男子の制服を着て登校し、特にさしたる波紋もなく受け容れられる。一方で、シュウは女子の制服を着て登校し、大事になってしまう。9巻では、シュウは不登校保健室登校、と義務教育の規律あふれる生活から外れてしまったパターンの王道コースに乗る。その中でシュウの心情は次のように変化していく。ちーちゃんやよしのが男子の制服を着ていたとき、誰も馬鹿にしなかったし、大問題にはならなかった。ならば、なぜ自分の場合だけは馬鹿にされ、問題になったのか。物語中では、この問いへの答えは用意されていない。僕はこのことについてわりかし真面目に考えてみたが、やっぱり答えは出なかった。あえて言うならば、ボーイッシュな女の子というのには市民権があって、ガーリッシュな男の子には市民権がない、からなのだろうか。このことの端的な示唆は、岡がよしのに対し「いや カッコいいよ マジで」と素直な賞賛を述べていることだが、この発言にしても、物語中においてはちーちゃんの男装という地ならしがあったからこそなのかもしれない。
シュウは人前に出て、女の子の格好をした自分を認めてほしいと常々感じていた。さおりんやよしの、まこちゃんなどの友人たちの承認というのは、あくまでも親しい仲であるからこそのものであることをシュウは認識していた。だからこそ、距離感のある人間の承認を求めていた。それは、女装した姿を他人に見られたい自分を変態なのだろうか?と自問するシーンによく現れているし、そこに他人の代表として顔が出ている土居から(つまり、過去に女装趣味を馬鹿にした土居から)、「すげー お前マジでかわいいな」と言われたことが、トリガーになって、自らの欲望を肯定してしまう。ちーちゃんやよしのにしても、シュウが女装して登校した場合の結果が最悪になることはわかりきっていたが、それを止める理由をもたなかった。自分がOKで、シュウがNGだという理由を言えなかったのだ。自らは男子の制服を着て登校し、認められた。ではなぜそうだったのかということがわかっていないため(それはおそらく誰にもわからないのだが)、シュウの意思に任せるということしかできなかったのだ。
集団行動が生活体系に織り込まれている者にとって見れば、規律から外れた存在というものはひどく異質だ。そして、その異質さをこそ、理由もなく「排除」するのが、子どもだ。子どもの他者との同質性への志向というのは並外れて強いのではないかと思うが、その理由はやはり「変」だと思われたくないからだろう。しかし、彼らの言う「変」は、「否定しない」「疑わない」ということからスタートしている。男であること、女であること、あらかじめ与えられていることに対して否定しない、疑わない。ごく自然なことであるからこそ、そこから外れていることに対する驚きと拒絶もまた、自然なものとなる。事件後に登校してきたシュウに対する他者から構成される周囲の反応というのは、憎悪ではなく嘲笑のこもった排除だった。そこに悪意がこめられているのかどうか、どうにでも言えてしまうことなのだが、僕としては「ない」のだと思う。だからこそ、この女装行為をめぐるシュウのやりきれなさが浮き彫りになっていくように感じる。無論、シュウが学校、クラス内においてヒエラルキーとしては高くない位置にあったことが、この反応を助けたこともまた事実ではある。
救いようのないくらいに、スジの通らないこの周囲の反応に対し、シュウは大人になることでしか対応できなかった。いや、大人というと語弊があるだけれど。姉のまほが学校に行けないのは、自分が女装して登校したからだという事実は、自分の行動は利己的であったと突きつけられてしまったに等しい。母親は学校に迎えに来て、家族会議になる。仲間は心配して毎日様子を見に来てくれる。こうした事実こそが、兼田に対して「あんなことしなければよかった て いまなら思います」と言わせてしまう。関係性を意識した発言を、わずか13、4歳の子どもにさせてしまう。遅かれ早かれ理解しなければならなかったことではあるが、その原因はあまりにも酷薄だ。
この物語では、ユキさんとしーちゃんというカップルと、シュウとよしのというカップルが対比されている。二組の決定的な相違は、同性のカップルではないということと互いに同性愛者ではないということで、そのことはシュウがよしのに告白したり、あんなちゃんと付き合ったりすること、よしのが男子に告白されてドギマギしてしまうシーンで強調されている。より露骨な対比が、シュウと同じ望みを持つところのまこちゃんが兼田にドキドキするシーンで提示される。現状の二人のポジションが、自分の「性」に対して不満があるが、同性愛者ではないというところに落ち着いているが、それは一体何なのか。フミヤの教会での問いも、そこに目が向かっている。恋愛感情との相反する関係に今後どのような展開が待っているのか、楽しみで仕方がない。