歴史共同研究

なんでこの場所でいつも立ち止まろうとするのか、まったく理解できない。歴史というものを国民統御のための「物語」として利用しているような政治体制にとって、自らの足跡に対する瑕疵を認めざるを得ない状況を生み出しかねない「場」など到底受け容れられないだろうことは明白なのに。結局のところ、第二次大戦は客観化するにはまだ近すぎるんだろう。それによって何かを得たもの、失ったものがいまだに生存・現存しているから、政治的作為と感情論によって、当事者たちはいまだに公正なスタンスを確立できずにいる。よしんば一人の学者がその位置に立っても、他の人々によって追いやられる。もっとも、過去になることで「物語化」することも、あんまりいいことではないだろうとは思うけれども。
また、国家間感情の緩和と整理という「利」を目的とした「共同」研究など、極度にゆがめられた歴史を捏造するきっかけになりかねない。歴史が国家政策や外交通商の一環として処理される限り、真実は隠蔽されたままだろう。