無意味無価値

なぜ現状では歴史というものは拡大された主観にすぎないということに気づけないのか。真の意味で歴史が共有される時というのは、国家がなくなった時であろう(それでも地域間対立に置き換えられる可能性がある)。ある共同体に伍する共同体が存在した場合、すでに歴史は「客観性」を離れているのではないだろうか。人間とは争うものだし、歴史は共同体を統御するための道具だからだ。二つの共同体が存在していて、友好的に時を送り続けたことがあっただろうか。価値観というものは必ず食い違うものであり、相違点が明らかになったとき、それが致命的であればあるほど、いさかいの火種となる。そもそも、個々に(人でも共同体でもいい)与えられた条件が違う時点で、私たちは妬みや争いから逃れることができないことが運命付けられていると言っても言い過ぎではないと思う。そして、共同体に所属する人間というものは、何かを「共有」しなくてはいけない。すなわちそれは背景であり、背景とは歴史だ。
「歴史共同研究」という響きは魅惑的だが、所詮それは絵空事に過ぎないし、歴史教育という国家の根幹に関わる事項に関わる認識を一致させる、ということは普通ならありえないように思う。「無理なことをやりましょう」と言っているのが、本気ならばあまりにも恐ろしい。食い違うのが当然なのだと思う。しかし、それを認めた上で大人の対応(微妙な言葉ですが)をしましょう、というのが筋だろう。