しかし

言語と文化、居住地域の関連性が引き裂かれた状態というのは、確かに僕にはわからないくらいの不安定な「自己」しか規定できないのかもしれない。普通なら日本語を喋って日本の文化に染まり、日本国内に住んでいるわけなのに、ハングル語と日本語を学び、朝鮮文化を保持しつつ日本文化に同調し、日本にすみながらも心は海の向こう、というのは自分がいたい場所を求めるときに難しい選択を迫られるんだろうか。