「消費社会の神話と構造」ジャン・ボードリヤール

第二部 消費の理論

p48-49

(中略)幸福という概念のもつイデオロギー的力は、もちろん個人が自分で幸福を実現しようとする自然に備わった傾向に由来するものではない。それは社会的歴史的に見れば、現代社会では幸福の神話は平等の神話を集大成し具体化したものであるという事実に由来している。(中略)消費が理想とする幸福とは、まず第一に平等(あるいはもちろん区別)の要請であり、そのために常に目に見える基準との関係で意味をもつべきものなのである。

p68

(中略)理想的な準拠としてとらえられた自己の集団への所属を示すために、あるいはより高い地位の集団を目指して自己の集団から抜け出すために、人々は自分と他者を区別する記号として(最も広い意味での)モノを常に操作している。

しかしながら、社会の基本的過程である地位の上での差異化(誰もがこの差異によって社会に組み込まれている)には、生活的側面と構造的な側面とがある。前者は意識的で倫理的(生活程度や地位獲得競争や権威の尺度についてのモラル)であり、後者は無意識的で構造的である。それは個人を越えたところに解読の規則や意味上の制約が存在するといった、そのようなコード(言語の場合と同じだ)への絶えざる登録の過程である。消費者は自分で自由に望みかつ選んだつもりで他人と異なる行動をするが、この行動が差異化の強制やある種のコードへの服従だとは思ってもいない。他人との違いを強調することは、同時に差異の全秩序を打ち立てることになるが、この秩序こそはそもそもの初めから社会全体のなせるわざであって、いやおうなく個人を越えてしまうのである。各個人は差異の秩序の中でポイントを稼ぎ、秩序そのものを再生産し、したがってこの秩序の中では常に相対的にしか記録されない定めになっている。各個人は差異による社会的得点を絶対的得点として経験するわけで、秩序内の位置が取りかえ可能であっても、差異の秩序は何の変化も蒙らないという構造上の制約を体験するわけではない。

p69

(中略)差異化の論理と威信の単なる意識的規定とを区別しなければならない。なぜなら、これらの規定は依然として欲求の充足であり、プラスの差異の消費だが、差異表示記号の方は常にプラスであると同時にマイナスである。したがって、これらの記号は他の記号を限りなく指示し、消費者の欲求を決して満たすことがない。

p72

(中略)人びとはどんな社会的地位を占めていても、ある種の「現実主義」によって、合理的に望みうる限界をはるかに越える願望は抱かないものである。客観的チャンスよりほんの少しだけ上の願望を抱きつつ、彼らは成長の社会の公式的規範を内面化する。ところが実は、ある限度以上にほとんど願望をもたずに、彼らはこの社会(拡大するという点ではマルサス主義的的社会観だが)の拡大の現実的規範を内面化しようとするが、それらの規範は常に可能性の手前にとどまっている。所有するものが少なければ少ないほど、望みも減少する(少なくとも全く非現実的な夢想が欠乏状態の埋め合わせをするような段階に達するまでは)。このように渇望の生産過程さえもが不平等なのである。なぜなら社会の底辺の層におけるあきらめと上層階級におけるより自由な渇望とは、欲求充足の客観的可能性を増大させることになるからだ。とはいえ、ここでもまた問題は全体的に把握されねばならない。職業上のあるいは文化面での渇望よりはるかに柔軟性をもつ(物質的または文化的な)純粋の消費願望は、ある種の階級にとっては上の階層にのし上がれなかったという事実を埋め合わせている。消費衝動は垂直的な社会階梯における満たされない欲求を埋め合わせることができるかもしれない。こうして(とくに下層階級の)「超消費」願望は、地位を求める要求の表現であると同時に、この要求の失敗を体験的に示すようになるだろう。

p73

(中略)社会的差別と地位の要求によって活性化された欲求や渇望は、成長の社会では入手可能な財や客観的チャンスにいつも少しばかり先行する傾向がある。それに、欲求の増加を前提とする産業システム自身が、財の供給に比べて欲求が常に超過していることを前提としている。(後略)

p77

(中略) マーシャル・サーリンズが「最初の豊かな社会」についての論文で取り上げた見解に従わねばならない。それによれば、いくつかの未開社会の例とは反対に、われわれの生産至上主義的産業社会は稀少性に支配されており、市場経済の特徴である稀少性という憑依観念につきまとわれている。われわれは精算すればするほど、豊富なモノの野真只中でさえ、豊かさと呼ばれるであろう最終段階(人間の生産と人間の合目的性との均衡状態として規定される)から確実に遠ざかってゆく、というのは、成長社会において、生産性の増大とともにますます満たされる欲求は生産の領域に属する欲求であって、人間の欲求ではないからである。そして、システム全体が人間的欲求を無視することの上に成り立っているのだから、豊かさが限りなく後退しつつあることは明らかである。それどころではない。現代社会の豊かさは希少性の組織的支配(構造的貧困)が優先する為に、徹底的に否定される。

p78

未開社会の特徴である集団全体としての「将来への気づかいの欠如」と「浪費性」は、真の豊かさのしるしなのである。われわれの方には、豊かさの記号しかない。われわれは巨大な生産機構によって、貧困と稀少性の記号を追放しつつある。だがサーリンズもいうように、貧困とは財の量が少ないことではないし、目的と手段との単純な関係でもなく、なによりもまず人間と人間との関係なのである。(中略) 富は財のなかに生じるのではなくて、人びととの間の具体的交換の中に生じる。したがって、富は無限に存在することになる。限られた数の個人の間でも、交換の度ごとに価値が付加されるので、交換のサイクルには限りがないのだから。この富の具体的で関係的な弁証法が、文明化され、かつ産業化されたわれわれの社会を特徴づける競争と差異化のなかで、欠乏と無限の欲求の弁証法として逆転されてしまっているのである。未開社会の交換の場合には、それぞれの関係が社会の富を増加させるのだが、現代の「差別」社会では逆に、それぞれの社会関係が個人の欠乏感を増大させている。というのは、所有されたモノはすべて、他のモノとの関係において相対化されるからである(未開社会の交換の場合には、モノは他のモノと関係を取り結ぶことによってこそ価値あらしめられるのだ)。

p93

モノは、かわりのきかないその客観的機能の領域外やその明示的意味の領域外では、つまりモノが記号価値を受け取る暗示的意味の領域においては、多かれ少なかれ無制限に取りかえ可能なのである。こうして洗濯機は道具として用いられるとともに、幸福や威信としての役割を演じている。後者こそは消費の固有な領域である。ここでは、他のあらゆる種類のモノが、意味表示的要素としての洗濯機にとって変わることができる。象徴の論理と同様に記号の論理においてもモノはもはやはっきり規定された機能や欲求には全く結びついていない。というのはまさしく、モノは社会的論理にせよ欲望の論理にせよ、まったく別のものに対応しているのであって、それらに対しては、モノは意味作用の無意識的で不安定な領域として役立っているからである。

p94-95

モノと欲求の世界は普遍化されたヒステリーの世界のごときものだといえるだろう。身体のあらゆる機関とあらゆる機能が変動しながら症候によって示される巨大なパラダイムとなるように、消費においてもモノは、そこで一つの言語が語られ他の何かが語る広大なパラダイムとなる。しかも、こうもいえるだろうか――ヒステリーの場合、病気の客観的独自性を定義することが不可能である(その独自性が実在しないというまさにその理由で)のと同じく、欲求の客観的独自性を定義することが不可能となるようなこうした消失、こうした不断の可動性、つまりある意味するもの(シニフィアン)から他の意味するものへのかくのごとき消失は、欠如にもとづくがゆえに癒されえない欲望の表層面の現実でしかないし、まさに永遠に癒されえないこの欲望こそがつぎつぎと出てくるモノや欲求の形をとってあらわれるのである。

p95

(前略)一方には欲望が充足させられると緊張が和らいだり消えたりするという合理主義的理論とはとうてい両立しがたい事実、すなわち欲求の遁走、欲求の際限のない更新という事実を前にして絶えず素朴に狼狽ばかりしている立場があるが、これに反し絵t、欲求とは決してある特定のモノへの欲求ではなくて、差異への欲求(社会的な意味への欲望)であることを認めるなら、完全な満足などという物は存在しないし、したがって欲求の定義も決して存在しないということが理解できるだろう、と。
だから、欲望の動勢には差異的意味作用の動勢が付け加えられることになる。(とはいえ両者の間に隠喩的関係が果たして存在するだろうか)。両者の間で、個々の欲求は次々と現れる対流の中心としての意味しかもたない。この種の欲求は欲求が交代しあう過程においてこそ意味をもつのだが、同時に意味の真の領域――欠如と差異の領域――を覆い隠してしまう。意味の新の領域は欲求の範囲を越え出てしまうものなのだ。

p112

(前略)このように自分のことを「幾重にも重ねあわす」定式(自分で自分自身を個性化する……!)は現在進行中の事態の真相を打ち明けてくれる。真相をあからさまにできないためにもがいているこのレトリックのすべてが語っていること、それは個性が存在しない(誰もいない)という事実にほかならない。かけがえのない特質と特別な重みをもった絶対的価値としての「個性」(この概念を、ヨーロッパの伝統は情熱と意思と特性あるいは平凡さをもった主体を創造する神話として鍛え上げたのだった)、そんな個性は存在せず、すでに死滅してわれわれの機能的世界から放り出されてしまった。このもはや存在しない個性、失われた審級が、今や「個性化」されようとしているのである。差異の多様化、つまりメルセデス。・ベンツや「ほんの少しだけ明るい色合い」やその他数多くの集中的あるいは散財的な記号のなかで、記号の力によって抽象的な形で復活しようとしているのはこの失われた存在であり、それは綜合的な個性を再創造し、結局は最も完全な無名性のうちに砕け散る。なぜなら、差異とは元々名付けようのないものだからである。

p117

(前略) 失われた質素は贅沢という基盤の上で完成される。――その結果はあらゆるレベルで見出される。知的「ミゼラビリズム」(貧困者のふりをすること)や「プロレタリスム」(無産者のふりをすること)はブルジョア的条件にもとづいて完成されるのである。ちょうど、レベルは異なるが、現代のアメリカ人性質が集団的娯楽として西部の河川に砂金探しに出かけるのと同じように。逆転された効果、失われた現実、矛盾した言葉づかいによる「悪魔祓い」はいたるところで消費と過剰消費の効果が現れていることを示しているが、この効果はいたるところでひとつの差異の論理に組み込まれているのである。

p118-9

(前略) まずはじめに個人的欲求をもった個人を中心に秩序づけられ、ついでこの欲求が権威ないし順応の要請に応じて集団の文脈の上に指数化される、といったものではないことを知るべきだ。実際には、まず最初に差異化の構造的論理が存在し、この論理が諸個人を「個性化された」ものとして、つまり互いに異なるものとして生産する。だがこのことは、自分を個性的なものとする行為においてさえも個々人が自分を順応させる一般的モデルと一つのコードに従って行われる。個人という項目についての独自性/順応主義の図式は本質的なものではなく、体験的レベルの問題なのである。コードに支配された差異化/個性化の図式の論理、これこそ根本的な論理である。
別のいい方をすれば、順応とは地位の平等化や集団の意識的均質化(どの個人も一列に並ぶような)ではなくて、同じコードを共有すること、ある人びとを他の集団の人びとと区別する同じ記号を分かちあうことである。ある集団のメンバーの(順応というよりは)同質性を生み出すのは、他の集団との差異であって、順応効果はそこから結果として出てくるにすぎないのだが、これは非常に重要なことだ。なぜなら、この事実が社会学の分析(特に消費に関する)を権威や模倣や意識的な社会力学の表面的領域の現象的研究から、コードや構造的関係や記号と差異表示用具のシステムについての分析へと、つまり社会的論理の無意識的領域の理論へと移行させることになるからである。

p122

このイデオロギー的レベルでは、矛盾はいつでも新たに爆発するおそれがあるけれども、システムは統合と規制の無意識的な装置の働きの方をはるかに有効にあてにすることができる。この装置の働きは、平等という装置とは反対に、諸個人を差異のシステムと記号のコードに組み込むことにほかならない。かくのごときものが文化であり言語活動であり、最も深い意味での「消費」なのである。政治的有効性は、矛盾の存在するところに平等と均衡を存在させることはでなくて、矛盾の存在するところに差異を存在させることである。社会的矛盾の解決とは平等化ではなく、差異化なのだ。

p124

いたるところで、個人はまず自分を好きになるよう、自己満足するようすすめられる。もちろん自分を好きになれば他人に好かれるチャンスも大きい。そしてやがては、おそらく自己満足、そして自己誘惑さえもが、誘惑的な客観的目的性にとって変わることもありえよう。誘惑的な企ては一種の完璧な「消費」というかたちで自分自身へと立ち戻るが、その企ての準拠枠はやはり他者の審級である。簡単に言えば、好かれるという行為は、誰に好かれるかという問題が二次的でしかない企てとなったのである。(後略)