「消費社会の神話と構造」ジャン・ボードリヤール

第一部 モノの形式的儀礼

p26

(中略)われわれは記号に保護されて、現実を否定しつつ暮らしている。これこそまさに奇蹟的な安全というものだ。世界についてのさまざまなイメージを目にする時、束の間の現実への侵入とその場に居合わせないで済むという深い喜びとを誰が区別したりするだろうか。イメージ、記号、メッセージ、われわれが消費するこれらのすべては、現実世界との距離によって封印された我々の平穏であり、この平穏は現実の暴力的な暗示によって、危険にさらされるどころかあやされているほどだ。

p27

同時に、消費の場所についても定義することができる。それは日常生活である。日常生活とは単に日常的な出来事や行為の総体、月並みと反復の次元のことではなくて、解釈のシステムのことである。また、日常性とは、超越的に自立した(政治や社会や文化の)抽象的領域と「私生活」の内在的で閉ざされた抽象的領域への、全体的な実践への分裂のことである。労働、余暇、家族、親族のすべてを、個人は、私生活という囲い、個人の形式的自由、環境への安全と適応と否認の上に成り立つ首尾一貫したシステムの中で、世界と歴史の手前へと退行的なやり方で再構成する。全体性という客観的視点から見れば、日常性は貧しい残りカスにすぎないが、それは全面的自立と「内輪向けの」世界の再解釈の努力という視点から見れば、意気揚揚として幸福感にあふれている。この点にこそ、私生活の日常的領域とマス・コミュニケーションとの深い有機的結びつきが見出されるのである。

囲い、つまり隠れ場所としての日常性は、まがいものの世界や世界にかかわっているというアリバイなしには、耐え難いものとなるだろう。だから日常性は、この超越性の増殖するイメージと記号とを絶えず栄養分としなければならない。(後略)

p28

したがって、体験のレベルでは、消費は現実的・社会的・歴史的な世界をできるかぎり排除することを安全のための最大の指標としている。消費は緊張の解除である弱者の幸福を目指すのだが、やがて一つの矛盾にぶつかることになる。この新しい価値システムのもつ受動性と、本質的に自発的で行動的であり有効性と犠牲を旨とする社会的モラルの規範との間の矛盾である。快楽主義的なこの新しい行動スタイルに付き纏う深い罪の意識と「欲望の戦略家たち」によって明確に規定された、受動性を免罪する緊急性とはここから生じている。苦労や心配事のない、そしてそれを喜んでいる無数の人々に受動性からくる罪の意識を取り除いてやらなけれなならない。(中略)ピューリタン的モラルと快楽主義的モラルとのこの矛盾を解決するためには、私的領域の平穏さは、カタストロフの運命に絶えず脅かされ包囲されている奪われた価値として現れなければならない。安全が(享受の枠のなかで)そのようなものとしてより深く生きられるためばかりでなく、そうした安全の選択が(救霊という倫理の枠のなかで)常に正当であると感じられるためにも外的世界の暴力と非人間性が必要なのである。日常性が自分とは正反対な偉大さと崇高さとを取り戻すには、運命や受難や宿命の記号が、保護地帯のまわりで花開かなければならない。その結果、宿命は、月並みな生活が希望と恩寵を見出すために、いたるところで暗示、かつ明示されることになる。(後略)

p29

こうして、日常性は社会的地位や受動性による幸福の正当化と運命の犠牲者に対して感じられる「陰気な快楽」との奇妙な混合物を提供する。これらはすべて、ある種の心性、つまり特殊な「感傷」を構成している。消費社会は、脅かされ包囲された豊かなエルサレムたらんと欲しているのだ。これが消費社会のイデオロギーである。

p39

これまでのすべての社会は、いつでも絶対的必要の限界を超えて、浪費と濫費と支出と消費を行ってきたが、それは次のような単純な理由によるものだ。つまり、個人にせよ社会にせよ、ただ生きながらえるだけでなく、本当に生きていると感じられるのは、過剰や余分を消費することができるからなのである。このような消費は消耗、すなわち純粋で単純な破壊にまで達することがあるが、その場合にはまた別の特殊な社会的機能をもつ。(中略)これまでのどの時代でも、貴族階級は無駄使い的出費を行うことによって、自己の優越を示したのだった。合理主義者や経済学者が作った効用という概念は、もっと一般的な社会の論理に従って見直されなければならない。この論理では、高度の社会的作用として合理的効用の概念と交代しつつ積極的な機能を果たし、ついには社会の本質的機能と見なされることになる――支出の増加、余剰、儀礼的で無駄な「役にたたない出費」等は、個人的領域でも社会的領域でも、価値と差異と意味とを再生産する場所となるだろう。(後略)