ep.キクチナナコ
ミドリちゃんが書いてくれたあの手紙のおかげで、わたしは過去に訣別することができた。
兼田先生が、「ヤなもんはヤでしょ」って、「いーじゃないですか、それで」って、言ってくれたのは、もうずっとずっと前のことだった。あのときのわたしは、ひねくれていたから、恨みがましい気持ちを心のどこかでずっと抱えたまま、早川さんの手紙のことを忘れられずにいた。なんて返事をすればいいのかわからなかった。
ミドリちゃんが書いてくれたあの手紙に綴られた言葉は、「今」のわたしが言いたくてカタチにできなかったことそのものなんだと思う。けれど、わたしにはどうしてもそこにたどり着くことができなくて、怯んだまま立ちすくむことしかできないでいた。でもね、ミドリちゃんのおかげで、ようやくわたしは、新しい「私」を生きることができるような気がする。
そんなことを言ったら、「バッカじゃねえの」って。ミドリちゃんはかったるそうにつぶやいた。吐き出した煙からは、メンソールの匂いが香って、わたしはとても安らかな気持ちになった。そうかも、バカだったのかもしれない。本当に、ささいなことだから。でもね、そんなささいなことが、わたしにとってはとても大きくて、放ってはおけないくらいに大きかったの。
本当に、ありがとう。
でも、それももう過去のはなし。
ミドリちゃんは相変わらず働いている。何度も何度も辞めたいと口にしながら、ずるずると働いている。
文句を言ったり、お金が無いと嘆いたり、ミドリちゃんは本当に口だけは忙しい。けれど、「そんなに言うなら、」と言うと、むすっとして黙ってしまう。好きな人に口を利いてもらえなくなるのは辛い……。だから、わたしはすぐに謝る。そうすると、ミドリちゃんはいつも許してくれる。
わたしは、というと、特に何も変わっていません。看護学校に行って、ゆくゆくは看護師になってミドリちゃんを養う、なんて考えもあったけれど、行動はしていないのです。兼田先生が入院していたときに、そう口にしたときには本当にそうしていいような気がしたのに、今の今までそうしてはいない。父親と陽子さんは、せめて大検だけでも受けたらというから、勉強はしているのだけれど、じゃあその先どうするのということを考えると、気が遠くなる。
この先いかに進むべきか。
そんなの、わからない。答えがあるなら教えてほしいよ。なんてことをミドリちゃんに冗談交じりに言ってみたら、「そんなんわかる人がいたらさ、そいつはきっと神様ってやつだね」って。確かにそうなのかもしれない。けれど、わたしにはそれがわからなくて、とても不安。子どもじみた悩みなのかもしれないけれど、わたしの中でそれは確実に大きくなっていく。
ミドリちゃんママが買ってきたスポーツ新聞に、若い女子プロレスラーが大暴れしたというニュースが一面に載っていた。この人は前に一度逃げ出して、数年経って戻ってきた。そしたらまた逃げて、今度はわりとすぐに戻ってきた、というネタになりやすいくらいのヘタレっぷりの上に、可愛らしい容姿もあって、よく新聞に載っている人だ。俗に言う、アイドルレスラーらしい。でも子どもがいるんだって。子どもがいてもアイドルになれるものなんだろうか。
「ねぇ、このひとってなんでプロレスやってるのかな」わたしはスポーツ新聞の上で中指を立てて悪態をついている女性を指さしてみる。
ミドリちゃんは新聞をサッとひったくると、記事を少しだけ真面目に読んで、それから苦虫を噛み潰したような顔をした。
「そりゃお前アレだよ、好きなんでしょ、プロレス」
「なら、なんで二回も逃げ出すの? 本当は嫌いなんじゃないのかな」
うぇー、という顔をしたミドリちゃんは明らかにこの話題を嫌っている。けれども、わたしが視線を外さずにじっと見つめていると、根負けしたように溜息を吐いた。
「色々あんのよ、きっとさ」と言うと、ミドリちゃんは新聞をほうり投げた。「アンタもワタクシも、一人で生きてるわけじゃないもんね」
わたしは一瞬あっけに取られてしまった。きっとだらしなく口が開いていたに違いない。だってミドリちゃんたら、またはじまった、みたいな顔をしていたもの。
「ミドリちゃんでもたまにはいいこと言うね」
「お前な……」煙草に火をつけると、いつもの匂いが香る。
「好きじゃないけど、色々あるからやってるのね」
「いやちげーでしょ。プロレスは好きなんだよ、このヒト。でも、辛いことや嫌なこともあってさ、やめたくなるわけよ。で、実際やめちゃうんだけど、なんか物足りないんだって気づくんじゃねえの」
「見てきた風に言うね」
「うっせ」ミドリちゃんはわたしを小足で蹴る。「人がせっかく相手してやりゃこれだよ」
「でも、感心しちゃった。ミドリちゃんがそんな風に考えるなんて」
「バカで悪かったな」
「そういうんじゃなくてさぁ、なんて言うか、想像力?」
「はぁ?」
「いいからいいから」そう言って、わたしはミドリちゃんの背中に抱きつく。わざとらしく胸を押し付けて、耳元に息を吹きかけてみる。細く骨ばった背中が、ぴくりと動く。
「おい、テメ」ミドリちゃんは煙草を灰皿に押し付けると、わたしのの身体を解いてから、膝の上に抱えた。
「なぁに?」わたしは微笑みかける。距離のない距離から、ミドリちゃんの息づかいが伝わってくる。
ああ、きっと、ミドリちゃんがクマをやめないのはそういうことなのかな。先生がいて、セミプロのお姉さんがいて、そしてわたしがいて。いろんな人がいて、そしてミドリちゃんもクマが嫌いじゃないから、だからやめられないんだ。
……じゃあ、わたしは?
わたしの人生にとって、かけがえのないものは何だろう。
「アンタ格ゲー上手いじゃん」ミドリちゃんは冗談を言う。「プロにでもなれば」
深夜のファミレスはここ最近の逢瀬の舞台。別に誰もわたしたちの間を邪魔するわけじゃないのだけれど、ミドリちゃんは家にずっといるのがいやみたいだし、かといってわたしの家という選択肢もない。ミドリちゃんはお父さんと陽子さんが苦手だから。
「そりゃ一番最初の出会いはゲーセンだったけど」わたしは首を振る。「ていうか、それまだ根に持ってるの?」
「んなワケないでしょ。そんなに女々しくないわ」
いや、女々しい。とても女々しい。多分腕時計のことも覚えていると思う。でも、口にしたら男らしくないから言わないだけ。
「ま、ゲームはキライじゃないけども。でも、それはわたしの中で大きくはないの」
「じゃあさ、お前は何が好きなの」
「え」
「好きなモノが、自分にとって大切なものなんじゃないの。この前のプロレス女と一緒じゃないスか」
「……わたしは」
ミドリちゃんは興味なさげに煙草を吹かす。あ、なんかむかつく。わたしは言葉を探した。必死に探した。キクチナナコという人間の歴史を引っ掻き回して、それから心の中をゆっくりとあらためた。
そうして、はたと気づく。わたしにはこれしかないのだ、と。ずいっと身を乗り出して、煙草の火の熱を感じるくらいに顔を近づけると、わたしは叫んだ。
「わたしは、ミドリちゃんが好き!」
ミドリちゃんは呆けたような顔をして、それから煙でむせて咳き込んだ。「おまえ、何言ってんのいきなり」
「何って、わたしの好きなもの」
「オレはモノかよ」
「ごめん。でも、他に思い浮かばないの」
「恥ずかしいよ!」
「嫌だった?」
ミドリちゃんはぷいっと横を向いた。「別に」
「ごめんごめん、もっと近くで言ってあげるから」わたしはミドリちゃんの隣に移動して、身体をもたせかける。そっと見上げる横顔は、少しどころかかなり赤らんでいた。
「だーかーらー」とミドリちゃんは怒る。照れた顔を見られるのが、嫌なのだ。だから怒ってみせる。でも、二人きりのときはいつも言ってることだから、今更だとは思う。でも……。
わたしの本気は、ミドリちゃんなの。過去は知らない、未来のことはわからない。でもいまは、そうなの。この嘘偽りのない事実が、チビで陰険でわがままで、でも本当に本当に優しいこの人が、わたしの一番大切な人。
わたしはあることに気づく。
幸せのにおいとともにフラッシュバックするミドリちゃんとの記憶たちが、とある言葉が「足りない」という事実を浮かび上がらせる。
ひどい寝汗とともにやってきた最悪の目覚めは、わたしを不安の底へと突き落とす。
女ってヤツのは面倒だね、とミドリちゃんが言ったことがある。
わたしもそう思うよ。でも、確かにそれは大切な事だと思うの。それさえあれば、生きていけるというくらいに。
言葉は大事なのね。それを口にするときにふと頭をよぎる重さよりも、ずっと、ずっと。
「そりゃまあ、言って欲しいよね」とお姉さんは言う。「カレは嫌がるけどさ、でも、何回言われたって嬉しいもんよ」
ええ、その通りです。
「いくらアイツがロクでもない甲斐性なしだからって、それくらいはきっちりするわよ、ね?」
わたしはうなずく。そんなこと言われたの、一回しかありませんだなんて、言やしない。この嘘は人を傷つけないための嘘。けれど、わたしは傷つく。口をつぐんで、心のなかで自分の血を流す。そうしたところで、一体何になるのだろう?
ねえミドリちゃん、わたしを助けてよ。
「あんなヤツだけどさ、ぶっきらぼうで、ひねくれたチビだけど、優しいところもあるのよ」
知ってます。わかりすぎるくらい、知っています。
「私にとっては、可愛い弟なのよ。もうそんな歳でもないけど。ナナコちゃんみたいな子が一緒にいてくれて、ホントありがたいわ。一人だときっと、どこかで野垂れ死にするんじゃないかな、っておもうの。馬鹿だし、無計画だし、常識もないし」
「ミドリちゃんはバカだけど馬鹿じゃない、とおもうんです」
お姉さんはきょとんとした顔をしたあと、しばらく間をおいてケタケタと笑った。
「ナナコちゃん、いつまでもちあきと一緒にいてあげてね。ほんとさ、バカだからさ、あいつ」
言われずともそのつもりですから、ご安心ください、お姉さま。
駅前でくるみちゃんを見かけた。あのときの彼と一緒に歩いていたので、声をかけられなかった。二人を相手にして、わたしは何を話せばいいのかわからないから。通りすぎるのを待って、わたしはその後姿をじっくりと観察し、そして見送った。
くるみちゃん一人ならば、話しかけられたんだろうか。いや、それは違うと思う。嫌な女になりたくないわたしは、今のままでは話しかけることすらままならない。何を言っても愚痴になりそうで、何を言ってもあのときのように泣き出しそうで。泣きたいのはくるみちゃんの方なのに、わたしは自分だけ……。
だから、わたしは自分をぐっと抑える。
けれど、誰かと話をしたい気持ちは変わらないから、ミドリちゃんパパのところに行ってしまう。というか、わたしにはそこしかない。兼田先生のところに行くことは、もうできない。ミドリちゃんが怒るし、それに兼田先生との約束も破ることになってしまうから。
パパは優しい。それは、大人の余裕というやつなのかしら。
「でもさ、俺もちあきには面と向かって言ったことないな……。言えたらカッコいいんだろうけど」とパパは言う。「ずっと関わってこなかったわけだからさ、それを今更言うってのもどうにも都合が良すぎて、無理だよな」
そんなことないよ。
「親子というのとはちょっと違うのかもしれないな。俺と恵美、ちあきの関係って。少なくとも、普通じゃない」
そういうものなの、かな? わたしにはよくわからない。でも、普通じゃなくたっていいじゃない。
「キクチさんは優しいね。でもさ、普通じゃないから、普通になりたいって思うんだ。やっぱおさまりが悪いと、しっくりこないんだよ。そういう風に教えられてきたからね」
普通ってなんだろう。パパとミドリちゃんの関係は普通じゃない? わたしとミドリちゃんの関係は? わからない。
「ほんと、俺もそう思うよ。でもそれを今更どうこう言ったところで、何も変わらない。そこまで割り切れないのさ」
頭のいい人は、生きていくためには割り切ることが必要だと言うけれど、それは何かを捨てることのような気がする。捨てることが悪いことなんだろうか。いや、そうじゃない。無理やり割りきっても、何も変わらない。変わらなくてはいけないのは、わたしそのものなんだ。
「かもね。俺もちあきにきちんと聞いてみればいいんだろうけど、今の関係になれただけでも、喜ぶべきことなんだから、それ以上を望んだらバチが当たるかもしれない」
もしかして、怖い?
「うん、怖いんだ」パパは煙草に火を点ける。「自分の気持ちに素直になるのが、怖いんだよ」
そうなのです。みんな素直じゃないから、苦しくなる。怖いから、何も言えない。
だとしたら、わたしたちは今の場所から一歩も進めない。自らの足で、歩き出すことはできない。ただ、長い長い時間に流されていくことしかできない。言葉では言いつくせないほどの不安が、わたしの中に広がっていった。
わたしは、ミドリちゃんの声を聞きたいと思った。
ミドリちゃんは遅番から帰ってくると、開口一番「腹減った」と言った。今日はカレーだよと声をかけると、「マジで腹減ったわ。あー腹減った、腹減った。ほんと腹減った」としつこく繰り返したので、わたしは思わず笑ってしまった。そんなに言わなくてもわかってるって。
ママは仕事。お姉さんは彼氏と遊びに行っていて、今夜はいない。
カレーをぱくついているミドリちゃんを見ていたわたしからは、思わず溜息が漏れた。
「どしたの」
「なんとなく」それから、にこりと笑ってみせる。気まずさを打ち消すかのように、わざとらしいくらいの明るさで、わたしは笑ってみせた。気まずい? 何が?
さいですか、とミドリちゃんは水を飲み飲み、カレーに戻る。その様子を見ているだけで、以前のわたしは幸せを感じられたのに、今では不安が混ざり込んでいる。
わがままを言うことは、贅沢なのでしょうか、神様。
急に肩をゆすられたので、はっと視線をあげると、すぐ目の前にミドリちゃんの顔があった。文字通り、目と鼻の先。
「どうしたんだよ」わたしの大好きな人は、少し青ざめたような表情をしている。「なんかブツブツ言っちゃってさ」
ううん、と首を振ろうとして、わたしはぴくりと止まった。嘘をついて、どうしようというのだろう。不安にさせないため? でも、それって違う気がする。今、この隙間に嘘をはさみこんでも、わたしは何にも変わらない。
そうだ。わたしは変わらないといけないんだ。素直になると決めたんだ。
ミドリちゃん、と言いかけて、わたしは言葉を飲み込んだ。「ちあき」
彼はぎょっとして目を見張った。「何よ、急に」
「ねえ、ちあき」とわたしは言った。ちあき、という三文字の語感がたまらなくいとおしい。離れかけた彼の顔に両手をそっとそえて、きゅっとつかまえる。そして、キスをする。いつもよりも、激しく。
唇と唇を離すと、わたしたち二人を結んでいた光の糸もぷつりと切れた。彼の顔は、明らかに上気していた。わたしも、頬が火照っているのを自覚している。
「カレーの味がするね」
「そらお前が……」と言うと、彼は改めてわたし抱き寄せる。
わたしも、華奢だけれど、確かに男の線をしているその身体をそっと抱きしめる。
「ねえ、そのお前っていうの、どうにかならないの?」
「は?」彼は重なり合っていた身体を引きはがすと、わたしの顔をまじまじと見つめた。
「気のせいかもしれないけど、多分、わたしの名前を呼んだことないでしょ?」
彼はしばらく考え込んだ後、静かにうなずいた。
「ね、そうでしょ。ずーっと、アンタとかお前とか、そんなのばかり」
彼はお母さんに怒られている子どものように、じっと黙り込んでいた。
「名前で呼んでよ、きちんと」
「……わかった」かつてないほどに赤らめた顔は、女の子のような幼さと、男の人の照れ隠しとが混ざり合って、とても複雑なものに見えた。でも、それがわたしにはとても可愛らしく思えた。
「うん」とわたしは言う。そして待つ。
コホンとひとつ、咳払い。それから、調子を確かめるように、あ、あ、あ、と発声を。そして襟元を正すと、きちんと向い合って、わたしの目を見る。見つめているうちに逸らしそうになったけれど、それでもやっぱりもどってきて、わたしをきちんと見つめる。
「奈々子」緊張感の中に消え入ってしまいそうなほどの、微かな声が聞こえた。さすがにわたしがむくれてみせると、彼はもう一度「奈々子」と言った。
「なあに、ちあき」
「いや、別に」
バツが悪そうに、彼は目を逸らす。
わたしはそれが元の場所に戻ってくるまで、じっと待ち続けた。その眼が再び戻ってくるまで待ち続けた。そうしているうちに、頭の中がだんだんとはっきりとしていき、喜びの彼方に埋れていた本当の望みを思い出した。
「……ちあき、好きよ」とわたしは言った。
まるで昔の恋人から掛かってきた電話を取ったような、彼はそんな驚いた表情をした。そして、観念したように深い息を吐いた。
わたしのことを抱きしめると、顔と顔は頬を寄せ合う格好になり、眼を合わせることはできなくなった。そっと眼を閉じると、とても安心できた。彼の鼓動が、わたしの胸にの奥にまで流れこんでくるのがはっきりとわかった。
「好きだよ」
耳元でほんとうに欲しかった言葉が響いたとき、わたしは人生に道が現れたような気がした。これがずっと聞きたかった。本当は、向こうから言ってくれたら一番良かったのに、なんて、そんな高望みは言わないけれど、でも少し悔しい。けれど、嘘は言わない人だから、本当に嬉しい。
かえってわたしの方が照れ臭くなって、ぽつりと言葉を漏らしてしまう。
「……ゆかちゃんにも、あんまり言わなかったの?」
「は?」
ミドリちゃんは、魔法が解けてしまったみたいな表情をした。その整った顔は見る見るうちに紅く染まっていった。
わたしはそのことがとても気に入らなかった。はっきり言って、むかつく。でも、それをほじくり返したのは自分自身だ。だから、この不快感は自分で受け止めなくちゃいけない。
「うるせえよ」と言うと、ミドリちゃんはわたしの額に頭をぶつけた。
「痛い!」鈍い痛みのせいで、頭がくらくらした。
ミドリちゃんは、何も言わずにわたしの頭を撫でた。ごめん、という声が聞こえたような気がした。
その仕草が何だかとても可愛らしくて、わたしは思わずミドリちゃんを押し倒した。肩を畳に押し付けて、身体をきちんと抑えつけると、わたしはもう一度キスをした。
「おい……」ミドリちゃんは困惑顔を浮かべる。細く、骨ばった肩が手のひらの中でわずかに動いている。
「へへ」わたしは笑ってみせる。と同時に、自分の顔が強ばっていたことに気づく。
ミドリちゃんは、観念したように体を緩め、溜息を吐いた。
ふと、テレビの上に置かれたクマと眼があった。その黒く光った瞳に、わたしというキクチナナコが映り込んでいた。見つめ返されている……。わたしはクマから眼を離すことができないまま、ミドリちゃんの上に跨っていた。
一瞬の油断が隙を生んだのか、ミドリちゃんは上手に身体をよじると肩を自由にした。あ、と思っている間に、わたしはひっくり返されて、形成は見事に逆転してしまった。
わたしはにこりと笑ってみせたのだけれど、愛想笑いは通じない。ミドリちゃんはわたしの首筋をざらりとした舌で舐めると、後は止まらなかった。
それからしばらく経ったある日、ミドリちゃんは懐かしい髪の色で現れた。ここ最近、ずっと黒い髪だったから、その色はやけにキラキラと輝いて見えた。少し真面目そうなミドリちゃんは、一夜にして、小生意気な男の子になってしまった。
「ミドリちゃん、どうしたの」
「そういう気分だったんだよ」ミドリちゃんは指先で毛先をつまむと、緑色を光に透かした。
「うそだあ」とわたしは笑った。「どうせ兼田先生に間違われたんでしょ?」
ミドリちゃんはムスッとして、「ちげーよ、バカ」と吐き捨てるように言った。
「……でもさ、ミドリちゃんはそれでいいんだよ。緑のほうがいいよ」
ミドリちゃんは、「さいですか」と言うと、タバコを咥えて火を点けた。
「うん」とわたしはうなずく。「ミドリちゃんは、そっちの方が似合ってる。カッコいいよ」
「はいはい」そう言いながら、ミドリちゃんは頭をかいた。眼も合わせてくれない。照れくさいときのミドリちゃんは、誰が見たってそうだとわかるし、そして可愛い。
「それに、ミドリちゃんなのに、髪が黒かったらなんかしっくりこないし」
「お前な……」ミドリちゃんは苦笑する。そしてしばらくの間、煙草に集中しながら何事かを考え込んでいた。
目の前の少年のような男の子は何かを言いたいはずなのに、何も言わない。わたしも、何を言えばいいのかわからない。重くも軽くもない沈黙が、互いの口をつぐませていた。
「どうしたの」やっと口にできた言葉は、こんなありきたりなもの。
ミドリちゃんはびっくりしたように、えー、あー、うん、と次々に口にしては、前の音をかき消していった。そしてようやく「いや、」と言いかけて、ミドリちゃんは頭を振った。「その、なんだ。……ありがと」
「なにそれ」とわたしは笑った。いや、そうじゃない。わたしはうれしい、「どういたしまして」
なんだかお互い照れくさくなって、今度は本当に何も言えなくなってしまった。
わたしはそっとミドリちゃんの手を握った。その手はゆっくりと、そして確かな力を込めて握り返してきた。今のわたしたちには、それで十分だった。わたしたちは、これから先もずっと一緒に歩いていけると思う。
わたしはもう、怖くない。