やらない善よりやる偽善(キリッ

っていうのは、第三者が言わないとおかしい話で、やってる本人が「偽善」だと認識してるならば、その人が考える「善」を成すべきだろう。善行であると信じているにも関わらず、偽善であると非難される行為に対しての擁護としての「やらない善よりやる偽善」でないのなら、それは独善というか、自己正当化のための詭弁にしかならない。ありとあらゆる行為は自他への虚栄心を満たすためのものであるとしても、自分の行為に対する認識だけは正しくするべきだろう。