「フリアとシナリオライター」マリオ・バルガス=リョサ/国書刊行会

フリアとシナリオライター (文学の冒険シリーズ)

フリアとシナリオライター (文学の冒険シリーズ)

★★★★☆
読み終えた瞬間、体が震えた。ああ、この小説を読むことができてよかった。そう思えた。別に、とても大切なことや哲学的なことが書かれているわけでもないし、読み手である僕としても特別な何かを得たような感慨はない。そういう、理屈の問題ではなくて、単純に面白かった。そうとしか言えない。
相変わらずまとまらない(まとめる気のない)感想は以下。
この小説を構成するのは二つの物語、というよりも、二つの語り手だ。一人は、ラジオ局でバイトしている作家志望の大学生のマリオ。この語りにおいては、マリオと義理の叔母であるフリアとの恋を描く。もう一人は、ボリビアからやってきた稀代のシナリオライターであるペドロ・カマーチョカマーチョは何かに脅迫されているかのように(それはおそらく、自分自身だろう)物語を紡ぎ続ける。その物語はラジオを通してリマの人々に届き、そして熱狂させる。
この小説は、「物語ること」について書かれている。マリオの話はまさしく青春小説だが、マリオは書くことについては未熟で、小説の構成上並べられた物語であるカマーチョのシナリオとはあらすじだけでも雲泥である。一方でそのカマーチョは、怒涛のごとくシナリオを書き続ける。彼の物語る力はすさまじく、マリオとは対照的な立場におかれている。カマーチョは物語る以外のことをしなくても良いのだ。物語るだけで生きていける。「生業」というやつで、それはマリオが目指した姿そのものなのだけれども、そのカマーチョは物語そのものに飲み込まれ次第に混濁していってしまう。いくつもの物語を並列的に生み出し続けていくうちに、全ての物語が混ざり合い、容喙してしまったのだ。AとBという物語の境界はいつしか消え去りCになり、CはDと混ざり合う……。
カマーチョの末路は哀れなものだ。フリアと結婚し、パリに住んで小説家になったマリオとは対照的な姿をリョサは読者に提示する。しかしそれは、語り部はいつだって物語に飲み込まれてしまう可能性があるのだ、ということを言っているのではないか。