かんなぎ読んだことないけれども

なんか適当に考えたんで雑だけれど。
キャラクターは、現在進行形の物語の中に位置する以上、不完全な存在でしかない。読者に提示されているのは断片的な情報と、文脈による位置づけだ。そこから都合の良い部分を発見し、自分の嗜好と照らし合わせてみたとき、「萌える」んだろうと。恋は盲目とは言うけれども、萌えも人を盲目たらしめるものなのかもしれない。そのキャラクターが属してる物語はまだ終わっていないにもかかわらず、萌えた読者の中ではそのキャラクターの諸情報は完結してしまう。そして、今後の物語で期待されるのは、読者にとってそのキャラクターの魅力を拡大するような、補強するような、そんな文脈になる。一部を切り取ってはスクラップし、自己の中で培養していく。そんな作業を無意識的に繰り返すうちに、キャラクターが物語のために存在していることを忘れ、物語がキャラクターのために存在していると錯覚するようになる。この思い違いによって、裏切られたというような「悲劇」が生じることになる。
これは読者が悪いのかと言うと、そうではないと思っている。自己本位なキャラクター規定を行った読者にも責任の一端はあるものの、作者にも責任はあるだろう。つまり、作者としてはキャラクターは(作者が)物語上必要とする情報を付加されたに過ぎないにもかかわらず、読者に拒否されてしまったという事実、これは物語がこれまでにその文脈を背負うに足る強度がなかったとも言えるからだ。唐突に過去や秘密を開示することは物語を劇的に動かす可能性を秘めている。だが、いきなり突拍子もない設定等を出されても、読者は困惑するばかりだ。ぱっと例が思い浮かばないので、わかりにくいと思うけれど。
もっとも、今の物語が置かれている状況と言うのは、キャラクターが全てにおいて優先するということもありえるので、あくまでこれは物語上位の構成になっている場合に限る。赤松健はあざといが、その辺が上手い。キャラクターの味付けを損なわないように物語を構築し(最近ネギま読んでないから違うのかもしれないけれど)、キャラクターを魅せることに徹する。なんかのインタビューでも言ってた気がするけれども、その辺は完璧に悟ってしまっているようだ。そういう意識を持ってやっている場合は、読者の過大な思い入れを裏切るようなキャラ変化を作者は起こせ(さ)ないのではないか。ここにおいて問題になってしまうのは、作者自身は物語を読ませることを第一においているにもかかわらず、読者が物語を脇へ追いやりキャラクターを「萌え」のレンズの中で拡大するものとしてしか扱っていない場合なのだが、これは完全に作者の企図が失敗しているだけに、どちらか一方が悪いとは言い切れない。いや、作者の方が悪いのかもしれない。
もっとも、記号による「萌え要素」を付加されたキャラクターは、その記号性に逆行するかのような文脈を背負わされることもままあるように思うが、それはそれで構成上のコントラストとして、逆に映えるだけに受け容れられることも多いような気がする。気がするだけだけれどね。