「われらが歌う時」(上・下) リチャード・パワーズ/新潮社

われらが歌う時 上

われらが歌う時 上

われらが歌う時 下

われらが歌う時 下

★★★★★
今年のベストはリョサの「楽園への道」だと自分で決めてかかってましたが、パワーズ大好きな者としての期待を裏切らない素晴らしい小説でした。読書子必読の一冊と言えましょう。高い本だけれども、新潮社だからそのうち文庫になるかもしれないけれども、ぜひ読んでほしいです。
以下超適当感想
アメリカにおける黒人差別」という問題は、日本にいて「アメリカ」に対して興味を払わない人間にとっては、その大きさが実感できないというのが正直なところだと思う。差別問題というのは、差別者、被差別者以外の立場になったとき、主に過去の出来事についての理解が困難となるところではないかと思う。無論、そこに何らかの問題意識を持って関わろうとする人間であればそんなことはないのかもしれない。だが、差別される人間の意識を完全にたどることは無理だろう。そして何より、差別問題というものをなくすためには、少数の意識の高い人間が差別の陰惨なところ、残忍なところを理解するだけではなく、意識の低い人間(第三者)が「差別」というものについて、何かを感じなければならない。しかしそれには途方もないインスピレーションを喚起するようなきっかけが必要となるだろう。それをこの物語はやってのけている。作家の創造力は、想像不可能な、体験不可能な出来事を疑似体験させることに成功している。
囚人のジレンマ」同様、家族の物語で、ホブソン家に対応するのはシュトロム家となる。シュトロム家は作中の時代背景を考えれば非常に特異な家族である。父親はユダヤ系ドイツ人で亡命者の物理学者であるディヴィッド、母親はフィラデルフィアの開業医であるデイリー博士の娘、ディーリア。デイリー博士は黒人としては異例なほどに学や財産を持った人間であることを付記する。兄のジョナは、天性の音楽の才能と、類稀なる歌声を持ち、肌の色は日焼けしたイタリア人といっても通じるほどに「白い」。語り手であるジョゼフもまた非凡な音楽の才能を持っているが、ジョナの兄弟であるとは思えないほどに肌が「黒い」。妹のルースは誰からも愛される性格で、音楽の才能も兄弟の間では一番ある。ジョナと同じく肌は「黒い」。ディヴィッドとディーリアは、差別された記憶を持つ存在であるからこそ、差別のない世界で「何にでもなれる」ことを教えたいと思い、子どもたちには黒人差別の現実を教えなかった。ジョナは音楽の道を突き進むが、彼がやっている音楽は「白人の音楽」であり、いかに白いと言えども「黒人」の血が混じったジョナという存在を、アメリカは白人社会の従順な飼い犬、文化的隷属者としてしかみなさなかった。肌の黒いジョゼフはなおさらだ。ルースは逆に、黒人としての意識を持たずに育てられたがゆえに、自分は何で有るのかという問いを間断なく続け、あるきっかけで得た答えにより、更に黒くなろうとする。
法律上の平等が約束された中でも、ジョナとジョゼフは有意識/無意識による絶え間ない差別にさらされる。法律は社会のあり方を規定するが、社会がそれに従うかどうか、ということはまた別の問題で、社会に内包される様々な世界において受け継がれる白人至上主義は変わることがない。それはディヴィッドとディーリアが出会った1939年のコンサートから何一つ変わらない。ディヴィッドとディーリアは差別の滑稽さに気づくことができたからこそ、二人で先に進みすぎてしまった。何事にもディヴィッドとディーリアのような「気づく」人間、ジョナやジョゼフのような先駆者が必要になるだろう。けれども、それだけでは変えられないという事実が、ルースのようなネガティヴな後退を生み出してしまうことになる。
差別に悩まされ、白人と関わらないことを選んだルースの元で、ジョナは血の濃さというものを思い知ることになる。そう、血は途方もなく途轍もなく濃い。黒人の血が一滴混じれば、彼/彼女は黒人であり、いくら白人の血を色濃く受け継ごうともそうは見られない。白とは排除の色であり、黒とは全てを内包しているのだ、とはデイリー博士だったかの弁だが、その言葉が出てくるまでには読者は間違いなくそのことを痛感しているはずだ。つまりそれはパワーズの編み出した家族の人生を歴史を追いかけることにより、想像と体験の不可能を超越したからに他ならない。
シュトロム一家とその軌跡はアメリカの理念を体現したものであることを頭に入れながら読むと、なおのことこの小説は面白い。言われなくとも気づくだろうけれど。誰一人として完全なる「白人」ではない(ディヴィッドは色は白いが、彼もまた迫害の記憶を持つ受難者であり、アメリカの外部からの存在である)この一家は、白でもなく黒でもない色を作ろうとする。白人文化である音楽と黒人の持つ魂の震えである音楽(とは言えそれも結局は白人音楽の影響を免れないが)の間で、白と黒の混じったジョナ、ジョゼフ、ルースはそれぞれのポジションを求めて彷徨う。