「闘争領域の拡大」ミシェル・ウエルベック/角川書店

闘争領域の拡大

闘争領域の拡大

角川書房ってなんだおい。自分で見て記憶力減退っぷりに大いに絶望。
ウエルベックの小説というのは、主人公は人並みの愛というのを希求しているのだが、どうしても手に入らないところからスタートする。これは「素粒子」しかり、「プラットフォーム」しかり、「闘争領域の拡大」しかり。しかしながら、社会弱者、恋愛弱者、性生活弱者という状況に追い込まれるのであるが、そのことに対してはおおむね冷静に分析が行われる。むしろ、もがいてもがいておぼれてしまうような人間は主人公の知人として描かれる。「闘争領域の拡大」においても、「僕」はなぜこのような弱者が生まれるのか?という構造を分析し、そして絶望する。状況の改善はおおむね望めないだろう、という前提の下、なにかあるかもしれないな、という淡い期待の中で毎日を生きる。つまらないという認識を持ちながら、生と死を平等に見つめる。この世界に広がっているのは虚無で、この弱者の立場に落ち着いてしまったことを悔やむ。ではここからどうしていくのか、というのは全くない。それは回答すべきことではないと考えたのか、それともこれからの課題であると考えたのか。「素粒子」と「プラットフォーム」を読めば多少はわかるのではないか(既読ですが)。
僕が朝っぱらから泣いた箇所。

「ちくしょう、二十八にもなって僕はまだ童貞だ!」
(中略)
「そりゃあね、僕だって考えたさ。その気になれば、毎週だって女は買えるだろう。土曜の夜なんてうってつけだ。そうすれば僕もようやくそれができるだろう。でも同じことをただでやれる男もいるんだぜ。しかもそっちには愛までついている。僕はそっちでがんばりたいよ。今は、もう少しがんばってみたいんだ」
(pp.111)

本田透(読んだことないし、主張もよく知らないけど)みたいだとおもった。

やはり僕らの社会においてセックスは、金銭とはまったく別の、もうひとつの差異化システムなのだ。そして金銭に劣らず、冷酷な差異化システムとして機能する。そもそも金銭のシステムとセックスのシステム、それぞれの効果はきわめて厳密に相対応する。経済自由主義にブレーキがかからないのと同様に、そしていくつかの類似した原因により、セックスの自由化は「絶対的貧困化」という現象を生む。何割かの人間は人生で五、六度セックスする。そして一度もセックスしない人間がいる。何割かの人間は何十人もの女性とセックスする。何割かの人間は誰ともセックスしない。これがいわゆる「市場の法則」である。
(pp.111-112)