愛国心を通知表で評価する

そもそも、どのような思想が根底にあれば、「通知表」で「愛国心」というものを評価できるという考えに至るのだろうか。不思議で仕方がないのだが、通知表の科目以外の評価部分は教師の主観が反映されるもので、客観ではない。「愛国心」というものが定義的にゆるぎないものであり、客観的観測基準があるのなら、「通知表という場」での評価もありえるだろうけれど、戦後から現在に至るまで「愛国心」から逃げてきた日本においてそんなことは不可能だろう。何かを想う心というものが広く共有された場合においてすら、その内容に差異は存在するということを考えれば、評価そのものが短絡的でしかないし、逆に無意味だ。「愛国心」というものは何なのかという議論がなされて、愛国心アレルギーのようなものが治らなければ、意味がないように思える。
大体、国だとか歴史だとか、国民や民族という大きな単位を取り囲む流れから故意に目を背けてきた結果生じてきたポモ的状況、つまり個人主義、の弊害(多分、問題になってるのってこれでしょ?)を取り除くために、懐古によって「過去にそうであった姿」を取り戻そうとするのは、性急過ぎるし、もうちょっと考えるべきでない? と思う。愛国心を教育によって涵養することで、一体何を得ることができるんだろうか、という問いがないんじゃないの。方法と結論は最初からガチガチに固められて用意されてるだけじゃないか。愛国心は強制されなければならないのですか? 「私と私を取り囲む環境」に対しての自然な感情の発露として、愛国心がはじめて実感されるんじゃないの?